2013年01月11日

中村家と手塚治虫


旧元狭山村二本木地区の臨在禅宗の寺院、寿昌禅寺には、中村家と住職の墓をとり囲むように「五人組」や名望武家の墓が並んでいますが、その中に手塚家があります。手塚家は「蔦」の家紋を抱く諏訪の武家と考えられますが、詳しいことは分かりません。それでも、平安時代末期に源氏と平家から生まれた地方武家であることは間違いないでしょう。

中村家は、いわば現在のキャリア公務員ですから、中央(鎌倉)の命令により全国展開しました。栗原家「忌野 清志郎(いまわの きよしろう、本名:栗原 清志〈くりはら きよし〉の先祖」は、現在の秦野、伊勢原の地で今の、国道246号線を守るとともに、中村と共に全国展開したようです。

手塚家も同様に、鎌倉幕府の命により、主君のために忠誠を尽くした中央の名望武家と考えられます。今は、入間市二本木には手塚の大屋敷はありませんが、鎌倉時代から戦前まで天領の地の元狭山村に君臨していたに違いありません。その、手塚家の手塚治虫のことと元狭山村の中村家の関係を調べることが、楽しくて仕方ありません。

以下は、以前のブログ

中村のルーツは平家であると考えられます。そして、鎌倉時代以降は「影武者的公務員」として村づくり、「宿」や「町」づくり、産業づくりの中心となり働いたのが「中村一族」です。

ウィキペディアより
平宗平は相模国余綾郡中村荘(現・小田原市中村原付近)に因んで中村荘司と称した。中村氏の実質的な始まりだが、一族も発展することとなる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%B0%8F_(%E7%9B%B8%E6%A8%A1%E5%9B%BD)

つまり、誇り高き「平家」の名を捨て「中村(村の中心、本郷)」を名乗ったということです。

1100年代に京都で誕生しました。ご存知のように平家は壇ノ浦の闘いに敗れました。よく平家の落人(おちうど)伝説が語られますが、あくまでも伝説です。当時は「源氏」「平家」「藤原」「橘」の公家4家で近親婚が繰り返されていたはずです。つまり、「親戚関係」が強かったはずであり、源氏が源平合戦で勝ったからといって、平家出身の「親戚」を皆殺しにするとは到底考えられません。

事実、平宗平は中村を名乗りその子孫は鎌倉幕府で「野」を与えられました。それが小田原の中村原です。ウィキペディアには、「嫡子の重平は父から中村の名字を継承した。次男の実平は土肥氏を称し、その息子の遠平は小早川氏を称した。三男の宗遠は土屋氏を、四男の友平は二宮氏を、五男の頼平は堺氏をそれぞれ称した。」と記されています。貧しかったとされる二宮尊徳があれだけの図書を手にすることがなぜできたのか、という疑問の答えは「親戚の中村家などが支援したから」が正解であると考えられます。

以前のブログ記事をご覧いただきたいと思います。

2012年06月28日
本当の歴史と、川越市、入間市、埼玉県のウソ@

鎌倉時代にこの通りの村づくり、町づくりを仰せつかったのが、【中村家】+後の戦国時代に戦うことになった「織田家」や「徳川家」を築き上げた侍であり、技術者あり、開拓者である「チーム中村」なのです。ときどき、中村姓は多いのに有名人が少ないとか、歴史に名が出てこないとか(架空の人物の「中村もんど」はいますが)ホームページ上で見かけますが、【中村家】はもともと「平家」です。源頼朝に「絶対におごるべからず」と指導されていたことは、容易に推察されます。「在庁官人」などというより、時の政権の「影武者的公務員」として活動してきたことは、二本木の中村家の歴史をみれば、実に明快に理解できます。

さて、鎌倉に幕府を置いた源頼朝は、【中村家】に「野」を与えました。それが現在の小田原市の中村原です。これまでの歴史家は、「中村原」などという地名から姓が生まれたといいますが、あべこべです。少し考えれば分かります。地名は誰が決定するのかを考えればよいのです。鎌倉幕府が管理する土地、つまり、古地図に掲載された地名は幕府が「ここを府中と呼ぶ」としたから「府中」になったのです。高句麗人が多く住んだ「狛江」などの例は別にしても、【中村家】に与えられた領域が「中村町」になったり、大野家に与えられた領域が「大野原」になったりするのです。
http://dream333.seesaa.net/article/277801033.html

中村と名のつく地名は700カ所とも言われています。名古屋駅は中村区中村町です。1871年には相馬藩が廃藩置県により中村県になりました。
ウィキペディア相馬中村藩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E4%B8%AD%E6%9D%91%E8%97%A9

それでも、「中村」の名のつく権力者は見当たりません。あくまでも時の政権の「影武者的公務員」に徹することが中村家の天命であるからです。

もう一つ、中村に与えられた使命があります。それは「良き技術者たれ」ということです。
私の父が生まれた「中村家」はお茶製造業です。農林大臣賞を20回も受賞している日本一の茶師を輩出してきました。

禅宗を広めた鎌倉幕府は、その必需品である「茶」「梅」「桑」「豆腐」「納豆」のうち、茶の栽培を「中村家」に委ねました。茶祖栄西が中国から持ち帰った種は、京都栂尾高山寺に蒔かれ、その種(しゅ)を現在の入間市二本木の「中村家」に委ねたのです。いつのことだかは分かりませんが、禅寺の必需品だけに「鎌倉時代初期」と考えるのが妥当でしょう。当たっているとすると父の生家である「中村家」は、鎌倉時代から750年以上に渡ってお茶をつくり続けていることになります。

インターネット検索で「お茶」「鈴木園」と入力しても3万件余りのヒット数ですが、「中村園」では245万です。最後に記しますが「鈴木さん」はまったく別な役割を持った一族です。

北条政子が鎌倉に建立して、茶祖栄西が初代住職になった臨済宗の寺院建長寺の「影武者的公務員」用の禅寺が、二本木の臨済宗禅寺である寿昌寺であり、「中村家」の菩提寺です。

禅宗をもとに全国に目を向けた場合、鎌倉幕府が禅宗用につくらせたお茶は「相模の中村家」だけでなく、「宇治の中村家」や「鹿児島の中村家」など「相模の中村家」とはルーツの異なる「中村」でしょう。その理由は、臨済宗の「派」が建長寺派ではなく、おそらく京都から派生したものと考えられるからです。

最初にこのように記しました。
中村のルーツは平家であると考えられます。そして、鎌倉時代以降は「影武者的公務員」として村づくり、「宿」や「町」づくり、産業づくりの中心となり働いたのが「中村一族」です。

お茶づくりだけでなく、梅干しづくりの農業技術者として活躍したのかもしれません。「町」づくりの図面を作成した技術者であったかもしれません。時の政権の「影武者的公務員」として、決しておごることなく忠誠を尽くしてきた日本中の「中村家」。平家の名を捨て民と共に歴史を刻んできた日本中の「中村家」。
これからも決しておごることなく、「弱い者の味方」であって欲しい。それが、「中村家」の歴史を語る一人の「中村」から、日本中の「中村さん」に贈りたいメッセージです。
http://dream333.seesaa.net/article/283863914.html

2012年06月24日
全国の鈴木さん必読「鈴木さんのルーツ」
約170万人の鈴木さんのルーツはここにあります。
http://dream333.seesaa.net/article/277003100.html







posted by S・C・ NAKAMURA at 18:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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