2012年12月29日

美しき鎌倉時代の伝統を伝えた旧元狭山村


すぐに新年、戦前の慣習でいえば、日本人はまた一つ年をとることになります。

鎌倉時代以降、天領(公務員の地)であった昭和初期の元狭山村には、当時の武士・公家文化がそのまま残っていました。もちろん、その中心は税金で食べていた、おごった元平家の末裔(まつえい)「中村家」であったことは疑う余地はありません。それでも「中村家」は今日まで源頼朝の教養を受け継いでいます。

私の曽祖父が初代村長の元狭山村にしか残っていない記録を紹介します。

関谷和著「子どものころ聞いたことば・話していたことば」埼玉県入間郡元狭山村(二本木)の方言覚え書きより

<引用開始>
としとり
節分、豆まきの日(2月3日、4日ごろ)

その昔、年をとるのはこの日であったらしい。この晩は豆をまき、魚の頭と柊(ひいらぎ)の枝を戸口にさした。それらの行事が始まる前の夕暮れどき、一つ年上の人のところへ“年もらい”に行った。「おめーの年をおれにくんろい」「やん(やる)べーや」戦前は今のような“満年齢制”ではなく、1月1日にひとつずつ年をとる“数え年制”であった。でも私たちはほんとうにみんなが年をとるのは、節分の日だと思っていたわけだ。
<引用終了>

いかがでしょうか。たとえば15歳の人が14歳の人に自分の「年」をあげる、つまり天の子たる日本人として15歳という「年のたすき」を次の14歳の人につなぐのです。こんな美しい文化は世界中を探しても、元狭山村にしか見受けられないのではないでしょうか。

今、日本人は「自分さがし」をしていますが、人生はそんなに複雑ではないことが分かってきました。個体としての日本人という「たすき」を次の世代につなぐことこそが、日本人の価値観(ナショナリズム)であるべきです。

最後に、私が尊敬する自民党の元衆議院議員加藤紘一氏のブログ記事を紹介しておきます。

この国の形
http://www.katokoichi.org/thoughts/nippon.html
posted by S・C・ NAKAMURA at 18:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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