2012年07月04日

古事記記載の「むさしの国」を発見 国宝指定要求へ



古事記
ウィキペディアより
古事記(こじき、ふることふみ)は、その序によれば712年(和銅5年)太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ、太安万侶(おおのやすまろ))によって献上された、現代確認できる日本最古[1]の歴史書である。上・中・下の全3巻に分かれる。原本は存在していないが、後世の写本の古事記の序文に書かれた和銅年及び月日によって、年代が確認されている。
『古事記』に登場する神々は多くの神社で祭神としてまつられ、今日に至るまで日本の宗教文化と精神文化に多大な影響を与えている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98

古事記より
「こは出雲国造、无邪志国造、上菟上国造、下菟上国造、伊自牟国造、津島県直、遠江国造等が祖なり。次に天津日子根命は、凡川内国造、額田部の湯坐の連、茨木の国造、倭の田中の直、山代の国造、上総望多郡の国造、道尻岐閇の国造、周防の国造、倭淹知の造、高市の縣主、蒲生の稲寸、三枝部の造等が祖なり」

无邪志国造の无邪志は「むさし」と読みます。

牟佐志.JPG


牟佐志国造御社に立てられた石碑

出雲祝神社
由緒
延喜式内社で人皇第十二代景行天皇の御代(筆者註71年〜130年)創建 大宝二年(筆者註703年)九月二十九日再建す その後幾度かの乱世にあいながらも御神のゆるくことなく一般から寄木様と親しまれてきた 弘治三年(筆者註1557年)小田原城主北条家より社領を賜り 尚徳川家康将軍はじめ代々の将軍より朱印十石をいただく 明治になり有栖川宮一品鐡仁親王により御染筆を賜る

那須国造碑
ウィキペディアより
那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)とは栃木県大田原市(旧・那須郡湯津上村)にある古碑(飛鳥時代)であり、国宝に指定されている。書道史の上から多賀城碑、多胡碑と並ぶ日本三大古碑の1つとされる。
碑身と笠石は花崗岩である。19字×8行=152字の碑文が刻まれている。
永昌元年(689年)、那須国造で評督に任ぜられた那須直葦提の事績を息子の意志麻呂らが顕彰するために、700年に建立されたものである。「永昌」という元号は唐のものであるが、日本の元号は686年に天武天皇の崩御により701年の大宝まで停止されていた為、唐の元号を使用したと考えられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E9%A0%88%E5%9B%BD%E9%80%A0%E7%A2%91


年代が「決定的に」ピタリと一致しているのである。古事記の出雲国は現在の出雲地方、上菟上国造、下菟上国造の「菟」はうさぎの意味がある。古事記の神話「因幡の白兎」の地、現在の山陽地方にくらべて国造が進んでいなかった山陰の鳥取地方の国づくりを時の権力者たちは急いだのであろう。

筆者は古事記を研究しているわけではない。【中村家】の狭山茶と狭山地方、鎌倉幕府、禅の関係を追っていたところ、「703年に牟佐志国造御社の再建」、「700年に那須国造碑が建立」、「712年に古事記が献上される」という史実の連続性を発見したのである。

この事実から類推すると、
◆700年に荒れた出雲神社に石碑を建立した後に、牟佐志国造御社を建立した。
◆700年に那須(広義に解釈すると古事記の茨城国は現在の栃木県も含むのではないか、そうすることにより当時の那須の国が国造の拠点になることは容易に理解できる)の御社(現在の笠石神社)に石碑を建立した。
◆和銅2年(709年)、牟佐志国牧岡(現在の港区三田)に御田八幡神社を創建。

那須国造碑は国宝に認定されているため見ることはできない。牟佐志国造御社の石碑は「放りっぱなし」である。

「牟佐志国造御社」でコンピュータ検索してもほとんど検索されない。「牟佐志」の先には、未発見の「知」が広がっているのである。

この筆者の古事記と石碑との連続性発見を機に、无邪志国から牟佐志国へ、そして武蔵国へと移り変わっていく、地方史の妙に思いをはせてみようではないか。本来は謙虚でやさしい日本人の姿が見えてくるに違いない。


posted by S・C・ NAKAMURA at 10:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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