2012年06月28日

本当の歴史と、川越市、入間市、埼玉県のウソ@


狭山茶は江戸時代には「河越茶」とよばれていたという。
鈴木会長らは、「800年前の発祥は川越。今後は川越茶のブランドも広めたい」

このような報道に対して26日に以下のブログ記事をアップしました。
http://dream333.seesaa.net/article/277337371.html?1340859420

シリーズでお茶の歴史を「解読」していきます。

父の生家は、入間市二本木にあります。この地域や隣接する宮寺地区には「中村園」というお茶の製造業者がたくさんありますが、その中核をなすのが二本木の「中村園」です。

話は、鎌倉時代の「茶」についてに飛びます。以前に書きましたように茶祖栄西が中国の「宋」から、その種を仕入れ、栂尾の高山寺の深瀬三本木に蒔いたのが、日本茶の始まりです。いや、日本茶というより「禅茶」と表現したほうがいいでしょう。

高野山のホームページから
<引用開始>
古くから明恵上人は茶祖、栂尾山は茶の発祥地といわれている。鎌倉初期、栄西禅師が宋に渡り養生の仙薬、延命の妙術としてこれを広めようと茶種を持って帰国しこれを明恵上人に贈られた。上人は、栂尾の深瀬三本木にこれを植え、宇治(跡影園 あしかげえん)その他の地にも広く移し植えられた。鎌倉時代、室町時代を通じて栂尾は茶の本園、その茶は本茶といわれ、天皇への献茶も毎年行われた。
<引用終了>
http://www.kosanji.com/

源頼朝は、1192年の鎌倉幕府開設以前から、京都から東海道沿いを「東の国」に向かって東進し、要所となる場所である現在の大津市、名古屋市、静岡市に「町」をつくりました。それが、「中村町」です。そして、たとえば尾張名古屋であれば「織田家」の侍を駿河であれば「徳川家」の侍にしっかりと「中村町」を守るように指示したのでしょう。

そして、鎌倉時代、幕府は現在の鎌倉市に、頼朝の妻政子を輩出した北条家は小田原に陣を構えました。

ここで「相模中村家」につてウィキペディアの内容を紹介します。
<引用開始>
中村氏は、桓武平氏良文流である平忠頼の子頼尊に始まると言う。頼尊は出家した後、山辺禅師と号した。頼尊の息子が武蔵押領使常遠であり、その息子である笠間押領使常宗が鎌倉景政に討たれた事が『桓武平氏諸流系図』に記載されている。
そして、常宗の子である宗平の代になって初めて中村の名字を名乗ったとされる。

平宗平は相模国余綾郡中村荘(現・小田原市中村原付近)に因んで中村荘司と称した。中村氏の実質的な始まりだが、一族も発展することとなる。
嫡子の重平は父から中村の名字を継承した。次男の実平は土肥氏を称し、その息子の遠平は小早川氏を称した。三男の宗遠は土屋氏を、四男の友平は二宮氏を、五男の頼平は堺氏をそれぞれ称した。
<引用終了>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%B0%8F_(%E7%9B%B8%E6%A8%A1%E5%9B%BD)
相模の【中村家】とは、鎌倉時代の国家運営、都市運営の基礎をつくった在庁官人です。
在庁官人
<引用開始>
そうした在地の有力者は在庁官人上層部として、国衙において他の在地の有力者の利害を調整しつつ、受領や目代と在地の利害も調整しつつ、自己の権益をより確実なものとしようとしていきます。彼らは在庁別名と、郡司職を「職(しき)」として世襲して検田・収納を行い、官物未進を口実に、買得し、更に国衙の税所(ざいしょ)、田所(たどころ:田畑に関する事務を扱う)などの重要な所職を世襲したりします。
<引用終了>
http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_33_3.html

「中村町」を、ヤフーで地図検索すると全国に76ヶ所検索されます。これは、何を示すか。少し考えれば分かります。「徳川家」「織田家」などのような「お家」ではないのです。京都付近で「中村氏」が誕生し、ある「システム」「機能」をもって、【中村家】に進化し、京都から、小田原から全国に【中村家】が送り込まれたのです。

ある「システム」とは、上記の在庁官人の役割ですが、尾張名古屋や駿河などの要所と違い、全国に送り込まれた【中村家】は、村づくり、町づくりの集団です。

以前にこのように記しました。
宮崎駿監督は映画「もののけ姫」のパンフレットのなかで以下のように語っています。
「最近の歴史学、民俗学、考古学によって一般に流布されているイメージより、この国はずっと豊かで多様な歴史を持っていたことが判っている。」
「武士と百姓の区別は定かでなく、女達も職人尽くしの絵にあるように、より大らかに自由であった。」
「タタラ者と呼ばれた製鉄集団の、技術者、労務者、鍛冶、砂鉄採り、炭焼き。馬宿あるいは牛飼いの運送人達。彼らは武装もし、工場制手工業ともいえる独自の組織をつくりあげている。」
http://dream333.seesaa.net/article/276175926.html?1340850551

鎌倉時代にこの通りの村づくり、町づくりを仰せつかったのが、【中村家】+後の戦国時代に戦うことになった「織田家」や「徳川家」を築き上げた侍であり、技術者あり、開拓者である「チーム中村」なのです。ときどき、中村姓は多いのに有名人が少ないとか、歴史に名が出てこないとか(架空の人物の「中村もんど」はいますが)ホームページ上で見かけますが、【中村家】はもともと「平家」です。源頼朝に「絶対におごるべからず」と指導されていたことは、容易に推察されます。「在庁官人」などというより、時の政権の「影武者的公務員」として活動してきたことは、二本木の中村家の歴史をみれば、実に明快に理解できます。

さて、鎌倉に幕府を置いた源頼朝は、【中村家】に「野」を与えました。それが現在の小田原市の中村原です。これまでの歴史家は、「中村原」などという地名から姓が生まれたといいますが、あべこべです。少し考えれば分かります。地名は誰が決定するのかを考えればよいのです。鎌倉幕府が管理する土地、つまり、古地図に掲載された地名は幕府が「ここを府中と呼ぶ」としたから「府中」になったのです。高句麗人が多く住んだ「狛江」などの例は別にしても、【中村家】に与えられた領域が「中村町」になったり、大野家に与えられた領域が「大野原」になったりするのです。

源頼朝は本当に「1192良い国」づくりを目指したのだと思います。それは、おごる平家時代の「格差社会」ではなく、武士も、百姓も、タタラ者も差別なき、「共存共苦」社会であり、宮崎俊監督がもののけ姫で描かれた「おおらかで、自由な」社会であったことはまちがいありません。

つまり、「源氏」は男たちが「ジェントルマン」になることを望んだのです。そして、それを保障する仕組みとして「茶禅一味」の生活を武家や公家に限らず、広く日本中に広めました。武家や公家には「臨済宗」寺院を、以外の「平民」には曹洞宗寺院を日本各地に築き、八幡神社(鶴岡八幡宮)の祭りごとと共に、世に「平安」をもたらす政策を実行に移したのです。

しかし、です。源頼朝亡き後の頼家や実朝は「京都」の栄華が恋しく、東の国づくりに積極的ではなかったようです。
そこで、頼朝の死後出家した北条政子が「方丈さま」となり、武蔵の国を歩き、「1192良い国」づくりに貢献したと考えられます。

狭山の地では、お坊さんの事を「方丈さま」と呼びます。また写真のように明らかに「方丈さま」が女性の「北条さま」と一体であるかのごとく、歴史物として残されています。

方丈さま.JPG



小田原の中村原では、二宮家などと協力し、野を開拓したり、街道を整備したりしました。あの二宮尊徳がなぜあれだけの書籍を読むことができたのか、中村家から二宮家が誕生したことを考えればすぐに分かることです。

繰り返し確認しておきますが、相模の【中村家】は、公家4家の直系ではありますが、「名家」ではありません。あくまでも技術者として組織というシステムを円滑に動かすための、「システム管理者」です。

二本木の【中村家】には、幕府から2つの大きな使命(まさに天命)が下りました。その一つは鎌倉街道の狭山神社を中心とした狭山地域に「宿」(鎌倉時代の「宿」は、平民の自由な移動は許されていましたが、江戸時代に栄えた「宿場町」とは異なる「馬のリレー点」「幕府からの郵便物などが届く「駅馬」に近かったと思います。」をつくれというものでした。戦前の二本木には「上宿」「中宿」「下宿」という地名が残っていました。

もう一つの使命は「禅宗用の茶をつくれ」というものです。ご存知の通り、禅寺での修行は「茶」「梅」「納豆」「豆腐」「饅頭」が欠かせません。以後、鎌倉幕府は各地に建てられた禅寺で用いる「茶」を狭山の地で、「梅」を青梅市梅郷の地などの現在のうめの産地で作らせたのです。

栂尾の高山寺の深瀬三本木に蒔いた種が茶の木となり、茶園となり、茶葉の収穫が見込まれるようになったため、狭山の二本木と名付けられた地を在庁官人である【中村家】が中心になり、栽培しなさい、生産された「茶」を曹洞宗の本山「総持寺」に横浜の浜町(現在の鶴見区の鶴見川河口の川崎側)や、曹洞宗の寺が21もある川越喜多の地の「商人(仲買人)」などを通じて、流通させなさい、というものだったと容易に推察されます。

入間市にある天保年間につくられた「茶碑」をみれば、江戸時代までは、全国で栽培・製造された「茶」や「梅」、秩父地方などで栽培させた「絹」などを全国に流通させる仕組みが出来上がっていたことがよく分かります。

この後の歴史はさらに面白くなります。

最後にもう一度いいます。川越市、入間市、埼玉県はウソを子どもたちに教えるな、と。


狭山茶の沿革.JPG



埼玉県広報誌「彩の国だより」より 2012年6月1日発行
コク、旨み 狭山茶
甘く濃厚な狭山茶。
その味は、年に2回しか葉を摘み取らず、味わいのもととなる成分を多く含んだ茶葉と、「狭山火入れ」といわれるじっくり時間をかけた火入れをおこなう独特の仕上げ方法により生み出されています。

さらに、埼玉県はこのようにも「広報」している。
昨年の原発事故で埼玉が誇る全国ブランドの狭山茶が大きなダメージを受けました。

埼玉県は、あたかも「全国ブランド」の狭山茶を埼玉県の特産品であるかのように埼玉県民、あるいは全国民にイメージづけようとしていますが、これは、狭山茶の歴史を無視した、隣国中国が得意な「ブランドの公的私物化」以外なにものでもありません。
狭山茶の歴史に無知なのか、知っていて欺いているのかは分かりません(筆者は知っていると確信しています)が、このような「早い者勝ち」「弱肉強食」的発想が、今日の精神的貧困社会を招いているのです。
埼玉県に対して強く抗議し、要望します。
それは「本当のことを知り、本当のことを全国民に伝えなさい」ということです。
お茶のこころは、「謙虚なこころ」「天の恵みに対する感謝のこころ」、そして「茶禅一味のこころ」だと私は理解しています。
早急に、全面訂正し、宣伝に加わった蜷川幸雄氏などの関係者や全国民に謝罪することを要望します。
posted by S・C・ NAKAMURA at 15:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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